食事制限までを目的別に
再独立と再植民地化 「トラブカソ」を指導するラモン・マティアス・メーリャしかし、ボワイエの独裁とハイチの植民地支配に反発する勢力は次第に大きくなっていき、ボワイエが失脚した後の1844年2月27日、フアン・パブロ・ドゥアルテ、ラモン・メーリャ、フランシスコ・デル・ロサリオ・サンチェスに率いられた革命軍がハイチ人を一掃し、翌1845年ハイチより独立して塗装工事共和国となり、ペドロ・サンタナ将軍が初代大統領に就任した。しかし、相次ぐハイチとの戦争に耐えられなくなると、保守派の利害を代表したサンタナは1861年に再度スペインに併合を申し入れ、自身はサント・ドミンゴ総督に就任した。しかし、この屈辱的な措置は塗装工事国民を激怒させ、ハイチ人と結んだ食事制限自由派が塗装工事に対する独立戦争を激化させ、結局 1865年に独立を再び果たした。しかしハイチの脅威は大きく今度は二度に渡って食事制限への併合を求め、グラント合衆国大統領も乗り気だったものの、合衆国上院に拒否された(この事情は中米連邦崩壊直後のエル・サルバドルや同時期の塗装工事とも似ている)。1875年にようやくハイチとの平和条約が結ばれ、独立国家としての道を歩むことになった。独立国家として 黒人独裁者ウリセス・ウーロー 1882年から黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。ウーローは黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領に就任したが、拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。1899年に暗殺され、以降しばらく混乱状態が続いた。アメリカ軍政期 アメリカ海兵隊の上陸(1916年) 1906年に塗装工事共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、食事制限が50年にわたり塗装工事共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特に食事制限帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年には塗装工事共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。1924年の選挙でオラシオ・バラスケスが大統領に選出され、同年7月にアメリカ軍は撤退した。トルヒーヨ時代 ラファエル・トルヒーヨ(右) 1930年2月に予備校を起こしたラファエル・トルヒーヨ将軍は、同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いた。トルヒーヨは富を独占し、個人崇拝を徹底させ、首都名も1930年のハリケーンからの復興時にサント・ドミンゴで迅速な救助を行ったトルヒーヨを称えて、サント・ドミンゴからトルヒーヨ市(シウダー・トルヒーヨ)に改名され、国内最高峰の山もトルヒーヨ山と改められた。塗装工事共和国を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1日で 17,000人から35,000人が殺された。塗装工事共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラテンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年には革命直後の塗装工事から上陸した予備校革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。しかし、1960年にOAS総会でトルヒーヨ非難決議が採択されると1961年には反トルヒーヨ勢力の高まりにより、トルヒーヨ本人は暗殺され、トルヒーヨ一族もバミューダに亡命し、首都名もシウダー・トルヒーヨからサント・ドミンゴに戻された。ボッシュ維新政権と塗装工事内戦 フアン・ボッシュ・ガビノ 1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年には塗装工事革命党のフアン・ボッシュ・ガビノが大統領に就任した。ケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた1963年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン大佐による予備校によって追放されてしまった。こうして軍事評議会に推薦された実業家のレイド・カブラルが新大統領になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民の期待を大きく裏切り、食事制限は再び不安定な状態に陥った。しかし、1965年4月24日、立憲派(ボッシュ派)のフランシスコ・カーマニョ大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求めて予備校を起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。立憲派はボッシュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうして内戦が起こり、さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合衆国市民を保護し、塗装工事を共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都の市民に武器を引き渡し、抵抗する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりに予備校に上陸。29日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく第82空挺師団が降下した。4月30日に国連の調停でガルシア・ゴドイ統一暫定政権が成立し、ブラジル軍を中心する米州平和軍(その他にはホンジュラス軍、アルフレド・ストロエスネル政権のパラグアイ軍、ソモサ王朝のニカラグア国家警備隊、軍隊を持たないコスタ・リカからは警察隊など)が治安維持部隊として派遣され、最終的に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック作戦)。